東京は自由が丘の駅近くに、一見、雑貨屋さんのような不思議なお店があります。それがポパイカメラ。写真好きの若者が遠方からでもやってくるこのお店は、なんと昭和11年創業、三代続くお店です。「写真屋さんの未来」という今回の特集のスタートを飾るに相応しい、希望ある親子対談に、これからの写真屋さんのあるべき姿を感じてもらえればと思います。

— 創業当時はどういうお店だったんでしょう?

父・芳邦さん(以下、わかりやすく“父”で) DPEですね。当時、写真が趣味だった父が友人の写真屋さんに勉強しにいって、自由が丘の駅前で店を始めたんです。一度戦争で焼けちゃったんだけど、焼け野原にバラックを建ててまた始めたんですよね。当時は、親父が暗室で仕事をしてる間、外に出て来てDPEの受付をしたり、小学校に上ってからは暗室の手伝いをしたりしてましたね。結局店を継いだのはそのあと、カラーの時代になってからです。だから、初代は白黒、2代目はカラー、3代目はデジタル。そんな時代の流れでだんだん変わっていった感じはありますね。

息子・芳伸さん(以下、わかりやすく“息子”で) 昔は写真も景気良かったんだよね。

 そう、カメラブームが二度くらい来ました。当時はカメラもたくさん扱っていて、横の壁一面、カメラを並べたウィンドウが4つあってね。でもヨドバシカメラとかが出てきて自分たちの仕入値よりも安いから「こんなの商売にならない!」って。

息子 でも僕が店に入った頃、7、8年前はまだそうだった。その頃はほんとに、スタジオとカメラ販売と証明写真とDPE受付みたいな、昔ながらの写真屋でしたね。

— 芳伸さんはいつからお店に入られたんですか?

息子 僕は写真学校を出て3年間くらいプロラボ(※プロカメラマンなど業務用の写真現像所)で勤めて、23歳で店に入ったんですけど、その頃に親父が辞めようと思ってるっていう話を母ちゃんから聞いて。母ちゃんから「芳伸どうする?」って言われて、じゃあ一度やってみようと、親父に「店に入る」って言ったら「継がせない!」って言われた(笑)。

— えっ!?

息子 そのときはもう親父は辞める気満々だったからね。で、結局店には入ったけど、最初はアルバイト扱いでろくに店頭にも立てないような感じで。3ヶ月してやっとDPEを任されるようになって。そうして最初はプリントと、後はアルバムを入れたりね。

 そうそう。

息子 このあたりの雑貨屋さんでお洒落なアルバムが置いてあるのを見て、何で写真屋にこれが無いんだろうと思って。最初はコクヨやナカバヤシのアルバムの中から布張りのものなんかを親父にバレないように注文して店に置いては、親父から「こんなもん売れねー!」って全部返品されて(笑)。だから話し合いをして、最初は一色一冊ずつ、売れたら入れる、みたいな感じで、本当にちょこっとずつで。

— 少しずつ許していかれたんですね。

 まあやっぱり……

息子 僕がうるさいんだよね(笑)。

 そうそう、頑固なんだよ。で、やっぱりね売れてきたんですよ。

息子 あと、そういうのを置き始めるとお客さんが「こういうのは無いんですか?」って聞いてくれるんで。僕が言ってもダメだけどお客さんから言われると理解出来るんです(笑)。

 最初強引だったもんね(笑)。

息子 強引で、ケンカになると、出て行くことがしょっちゅう。週に1回はあったんで(笑)。周りの人にとっても恒例行事みたいな感じ。カメラが並んだガラスウインドウにしても、2年に1回くらい、4つあったうちから1個づつ減らしていって。でもやっぱり親父はカメラ屋の意地があったんで、1つ潰す度に「もう辞めてやる」って不機嫌になって(笑)。最後の2個ぐらいからすごい壮絶な戦いがありましたね(笑)。

 (笑)。まあでもね、やっぱり変わっていかなきゃなんないし。自分も親父から引き継ぐ時に同じ様なことをやってましたから。お客さんに「若い時はお父さんもよくケンカしてたよね」って言われます(笑)。まあ、今はもう息子に任せてますけどね。

息子 昔はねあんまり写真が好きじゃなかったんですよ。でも店を手伝うのは小学校くらいから好きだったんです。だから継ぐ継がないは別として写真学校を出ておけば手伝いくらいは出来るかなと。それで学校に入ったら、当時の担任の先生から「お前は写真家に向いていない!」と(笑)。それでプロラボの営業に。でもそのときの経験が、今かなり生かされてますね。

 そこでかなり勉強したんでしょうね。写真の色に関してはものすごいシビアだったりするから「ああ、こいつこういうセンスあったのか」って思います。よく分かってるんですね。ほんと、それが今の商売に役立ってるよね。

息子 プロラボ時代、お客さんにものすごい叩き込まれて。一年目でいきなり、一番厳しくて妥協を許さないスタジオの担当にされて覚えざるをえなかった。最初は色も何も分からないのに投げ込まれたから毎日泣きながらやってましたね。だからうちでは、僕が入った当初からプリントにはすごく力を入れていたんですよ。

 そうだね。

息子 一時期、同時プリント・スピード仕上げが流行ってて、それが約5年前に終ったんですよ。もうフィルムを使う人がほとんどいなくなって、デジカメに変わっていくから、うちもそっちにいくのかなっていう時期があったんだよね。だけどある時、デジタルプリントでも写真屋は生きていけないかもって思ったんですね。どうせまた値下げ競争が始まって、そうなるとデジタルプリントってなかなか差別化が難しいから。それならとにかく最後にあがいてみようと思って情報収集に必死だった。だからしょっちゅう出歩いて。

 僕が番頭さんでね、息子はもうすぐにどこか行っちゃって。

息子 ちょっと暇になると「じゃあちょっと行ってくるわ」って色んなところを見に行ってたんですよね。だってね、僕が居ない方が……

 平和なの。いるとうるさいから。

息子 もう姑みたいに「おーい! ハタキかけろよっ」とか「商品曲がってるじゃないか!」とかとにかくうるさいからね(笑)。他業界より写真屋はそういうところに目がいかないっていうのがあって。

 写真屋ってメーカーからポスターとか送られてくるでしょ。でも、一切貼らない。僕の頃はやってたんだけど。

息子 ボロ隠しみたいに貼りまくってるのが嫌で。それを一切受付けないっていうのから始めていって。でもお金が無かったから店内改装はなかなか出来なかったんですよ。だから東急ハンズで板を買ってきて自分で棚つくったり、そんなことから始めて。

 壁紙貼ったり、もとはカメラのウインドウだったところにフレームを飾ったり。そうして徐々に、受け入れられてきてね。やっといろんな人に来てもらえるお店になったんだよ。

息子 そう。当時、僕はレコードが好きだったんですけど、渋谷の一等地に大きなレコード屋があって、人も沢山入ってるのを見て、世の中ではほぼ使われてないレコードで何で成り立つんだ? と思ったんです。で、考えてみると、本当に好きな人のために極めればこうなるのかなって。ということは、うちも日本ではここに行かなきゃ! みたいな写真屋になろうと思って。当時、写真専門店っていうお店はたくさんあったんだけど、要は個人店をそう呼んでるだけで写真の専門店でも何でもなかったわけですよ。同時プリントを急ぎで焼いて、明るくしてくれ濃くしてくれって言っても聞いてくれないし、フィルムもろくに置いてないし置いてても日に焼けてたり、埃被ってたりとか。こりゃあフィルム使いたくない!って思うわと。だから写真のことに対しては、ちゃんと適正なお金をいただくかわりに何を言われても断らないっていうかたちをとって、それでダメだったら写真屋を辞めたって良いと思ったんです。

— なるほど。

息子 フィルムの今の現状についてはね、とにかく写真専門店として悲観的な考え方はしたくなくて。悲観的になっちゃうと、なかなか新しいものを生みだせない気がする。フィルム写真って撮った自分一人じゃ完成できないものじゃないですか。どんなプリントも仕上げるまで、誰かが中に入って、その誰かの技術力やセンスが入って一つの作品が出来る。だから写真屋としてフィルムをやることにはメリットがたくさんある。正直まだ出来てないことや、もっと提案したいことがたくさんあるんです。だから、フィルムはまだまだ伸ばせるんじゃないかと思っています。

— 心強いですね。

 そう、あとね、若い子の言うことも理解しようとしないとだめだね。

息子 そうだ!!

一同 (笑)。

 最初は全く分からなかったですよ。出来上がりの写真の良さもあまり理解出来なかった。それでも「おじいちゃんに昔のカメラをもらったけど分からない」って子に教えてあげたり、そういうところからだんだん近づいてきて、写してきた写真を見ると、ああ、我々とは違うこういう写真を撮るんだなーって分かってきて。最近は休みの日にトイカメラを持って写したりしてるんですよ。お客さんの写真を見て「ああ、こういうところを狙ったら良いんだなぁ」とか勉強しながらね。

ポパイカメラ
東京都目黒区自由が丘2-10-2(TEL. 03-3718-3431)
http://www.popeye.jp/