フォトシエということばに対するぼく自身の疑問や葛藤は、写真屋さんという商売に対する写真屋さん自身の疑問や葛藤とまったく同じような気がします。次に紹介したいのは、これからの活躍が楽しみな、いわば未来のフォトシエ。名前は山本陽介(30歳)。家業の写真店の3代目である彼は、店で働く傍ら、写真教室cheeeese!!(チーズ)を主宰しています。紆余曲折の青春時代を経て、ようやく今の仕事に辿りついた彼には、どうしても伝えたい想いがありました。

写真の道へ

山本写真機店は亡くなったじいちゃんから始まって、僕で3代目になります。ただ、自営業の長男にありがちなんですが、昔はこの仕事のことが好きではなかったんですね。それが、高校を卒業して福岡の専門学校に行ったときに親から「バイト探しなさい」と言われてカメラの販売員のバイトを紹介してもらった。それで、毎回職場でカメラを触るうちに、いつのまにか好きになっていました。専門学校では、雑誌の編集を学んだんですけど、そこではいろんな会社に研修として行くことができて。で、ある日その研修先で北海道に行くことになり、そこに同行していたカメラマンさんがめちゃくちゃカッコいい人だったんです。それで「これや!」と。「カメラマンや! だって、俺の実家カメラ屋やったし!」って(笑)。間違いない! と思い込んで、卒業後、福岡の大きい写真スタジオでアシスタントとして働きだしたんです。でもそこはあまりに本格的すぎて、知識がない上にちょっと響きがカッコいいな、くらいの気持ちで入った若者には酷すぎる現場で、すぐに辞めてしまいました。

それで、専門学校行ったのも意味なかったな〜なんて悩んでいたら、例のカッコいいカメラマンさんが急に連絡をくれて「働いてないんだったら、うちに手伝いにくる?」って。その人のアシスタントとして働くことになったんですね。そこには2年弱くらいいましたが、そこも最終的に、社用車を私用で借りて帰ってきたときに、停めてあったベンツにぶつけちゃった。それで、居づらくなって……辞めたんですよ(笑)。それで、困ったなあと。好きなことを仕事にするのは難しいなあって思って。その後ケーブルテレビの仕事とか他の仕事をいくつかやって、山口に帰ってきました。

家業を継ぐ

明確な意志があったわけではないんですが、とにかくこっちを拠点に仕事していこうかなと。でも、帰ってきてから、最初はちょっと別の仕事をやったりもしたんですが、それもすぐに辞めて、家でダラ〜っとしてしまってました。そのころ本当にオチてたんです。「もう、俺ダメだな〜」って。で、いつものように家でダラダラしてたある日、親父に「おい、陽介ちょっと下降りてこい」って呼ばれたんですね。「ニートしてんのやったら家で働け」と。それを聞いて、僕は内心「いつそれを言ってくれるかなと思ってたんです!」っていう気持ちで、嬉しさで笑いがこらえ切れず「はい! お世話になります!」と(笑)。

それで、まあ、働くことになりまして、最初は父と2人、支店の方でやってたんです。本店はなかなか忙しくて、いつでもお客さんが多かったんですけど、支店は本当に暇で。で、暇なところに親父と2人でいるもんだから、いっつもケンカ。最終的には大げんかに発展して、僕が「辞めちゃるわ」って言って飛び出したんです。それで今の嫁、当時はまだ結婚していなかったんですけど、彼女に「もう辞めて福岡行くけぇ!」って言ったら、「ちゃんと謝って、戻りなさい」って諭された。彼女はすごい、なんでも「ちゃんとしなさい」っていう感じの子で。それで僕も反省して……だから、今があるのは本当に嫁のおかげです。で、戻ったら今度は本店の方で働くことに。それから、しばらくして写真教室をはじめることになりました。

写真教室スタート

そもそものきっかけは、嫁と付き合いはじめたこと。嬉しくてたくさん写真を撮るわけなんですよ。昔から友達を撮ってあげるのが好きだったんですが、これまでは周りに若い子しかいなかったから皆褒めてくれた。でも、嫁の写真を店に来るお客さん達に見せたら「自分の嫁撮ってどうするんか?」って言われて。富士山にみんなで車乗って撮影に行ったとか、どこどこのコンテストに入ったとかそういうことが大事で、僕の写真は「この被写体はコンテストに相応しくない」と、ことごとく否定される。それを聞いて違うなあって。で、一方店に来る写真好きの若い子に写真を見せたら喜んでくれたりして、こういう子達が増えると自分もカメラ屋をやるのがもっと楽しくなるのになって正直思ってた。あと、うちの店って遺影写真も扱うんですけど、頼まれる方はL版のプリントを持ってきて遺影にしてくれっていう人ばっかりでネガを持ってくる人はほとんどいない。それで、ある日写真好きのお客さんが、奥さんが亡くなられて遺影写真を頼みに来られたんです。でもそれは、奥さんがほんとにちっちゃくしか写っていない集合写真。その方は、うちで何百枚と四つ切りプリントを焼いてきた方なのに、奥さんのちゃんとした写真は1枚も無かった。それは違う、と思ったんですね。

写真教室を始める半年ほど前、その想いをフリーペーパーにまとめようと思った時期もあったんですが、部数も限られるし、それを作って置いても結局は一方通行。そう思ってやめました。でもやっぱり、何かしたかった。伝えることたくさんあるのに、ってずっとモヤモヤしていて、そんなある日、今教室をやらせてもらってる『おもしろファーム』の人が「今度こういう場所を作るんやけど、あんたの店で写真教室でもやってみん?」って話に来てたんですよ。でもうちのかあちゃんは「そんなの出来る人間おらん」って断ろうとしてた。それで勢いで「あ! おれがやる!」って。

もう最初は試行錯誤で、普通に他の教室をネットで検索して、こうしておいたら写真教室らしいかなって企画書に。そしたら理事会でダメだしされるわけです。「お前、それネットで見たんじゃないの? 俺、おんなじようなの見たことあるよ」って(笑)。「お前だから出来る教室っていうの、ないの?」って言われて。僕、理事でもなんでもないのに発足までの会議に毎回呼ばれたんですよ。「お前、チェックしないと、ほっといたらサボるから」って(笑)。で、何ヶ月かダメだしされる時期が続き、それである日、もともと伝えたかった想いをベースに教室をやればええんやって気づいて、それを理事会でプレゼンしたら「お前、これや!」。そして、ついにスタートしました。

プロとして

今では教壇に立って話すことにもだいぶ慣れましたが、最初は「緊張するんでトイレ行ってきます」なんて生徒の皆さんに言ってしまうことも(笑)。だけど、ちょっとずつ授業の内容も良くなってるなと思います。とにかく僕が教室で伝えたいこと、メインテーマは「人生を記録しよう」ってことなんですよ。結局は、どんな写真も思い出になるんです。もちろん、アドアマの方が富士山を撮りに行った写真だってそう。僕は、写真は人生の付箋だと思っていて。写真があれば、そのときの思い出が広がるから。でも、その考えに至る以前、最初の出発点は私写真こそが撮るべき写真であるっていう想いでした。今自分が大人になって子供の頃の写真を見たとき、一番グッとくるのがそういう私写真だったから。今は、「なにこんなもん、子どもと笑っとるだけじゃん」って思うかもしれないけど、時間がたてばその価値は逆転すると思うんです。だから、それを伝えて、気づく人をたくさん作っていけば、きっと写真によって人生が豊かになる人がたくさん出てくるだろうと。

僕の教室は、技術的指導に関しては未熟で、写真家さんの教室の方がよっぽどちゃんと教えてあげられるかもしれない。でも僕は、宇部っていうちっちゃな町で、このクラブに入ってよかったなって思ってくれるものにしたかった。だから、市役所の斡旋でやっている感じとは違うなって思ってもらえるように、名前もすごい考えて、ホームページも、自分で考えられるマックスのおしゃれ感を出して作って、そういう中でみんなに写真を楽しんでほしいと思ったんですよね。

最初のころは両親にも「あんた、そんな写真教室なんかやらんと早く配達行き」とか「生徒さんと何分話しとんの」とか言われて。事務のおばちゃんも「あんた、ニーズはやめて早く配達回ってくれんといかんよ」「ニーズやない、チーズやけえ」とかそういう感じで(笑)、全否定されつつやってきたんですよ。でもやっぱり絶対大事なものだって信じて、それを伝えたいと思って教室やってきて。薬局の壁かなんかに書いてた張り紙なんですけど「途中でやめるくらいなら最初からやらん方がマシ」って。たまたま見たそれがすごい沁みて。だから、誰にどんだけ言われてもチーズは最初に自分が始めた企画だからちゃんとやろうって。僕、これまでのことを振り返っても本当に薄っぺらくてダメな人間なんですけど、結局これまでの仕事は、全部覚悟が出来ていなかったんです。プロ意識も全然なかったし。営業の仕事してたころなんて、サボってすべり台で夜まで寝てましたからね(笑)。だけど、チーズは違う。生徒さんがいて、伝えたいことがあるから。本当に生徒さんに育ててもらったっていう感じなんですよ。4年くらいやってきて、すでに150人くらい卒業生も送り出して、僕自身が人間的にすごく良くなったとは思わないですけど、あの頃よりはマシだと思っています。絶対に。

山本写真機店
本店/山口県宇部市中央町1-9-15(TEL. 0836-31-5005)
小野田店/山口県山陽小野田市中央2-1-1 (TEL. 0836-83-2288)

おもしろ写真教室cheeeese!!
http://www.cheeeese.jp/